市川教会の沿革

 1877年に山梨県南部町にあった蒙軒学舎の英語教師としてカナダ・メソジスト教会から派遣されたⅭ.S.イビー宣教師が招かれました。その翌年の1878年4月に甲府の英学塾に招かれ、英学塾で英語を教えるとともに甲府を中心として韮崎、石和、市川大門などでキリスト教の伝道を始めました。市川大門ではそれから時折に聖書講義が行われるようになり、礼拝も行われるようになりました。そのころの細かい資料はありませんが、そうしたことがあって、1888年4月にカナダ・メソジスト教会の日本人の福音士(信徒伝道者)が市川に定住するようになり、市川教会が成立ました。最初は借家を借りて毎週日曜日に礼拝が行われていましたが、1897年に現在の礼拝堂が建設されました。礼拝堂の内部は補修されたりしていますが、建物としてはその時のままで現在に至っています。この建物は、蔵造りの建築様式に西洋式の建築様式を取り入れた藤村式蔵造り建築です。1997年に国の登録有形文化財になりました。

 最初に教会が始まったときは、東京の専門学校や大学に通っているころ東京でキリスト教に出会い、洗礼を受けた若者たちが市川に帰り、市川教会に集いました。この中に渡辺青洲の息子である渡辺沢次郎がいました。渡辺沢次郎は早稲田専門学校に通っていたのですが、一時休学していた時でした。熱心に教会に通い、その後、東京の学校に復学し、1889年に東京で洗礼を受けて帰ってきました。渡辺青洲・渡辺沢次郎親子は市川大門の有力者で、山梨でも指折りの大地主でした。現在の市川教会の境内地は渡辺親子によって献げられ、教会員の献金によって礼拝堂が建築されました。

 市川教会はそれから日本メソジスト教会に所属する教会として市川大門で伝道し、昭和初期には1年間に100人以上が洗礼を受けた記録が残っています。市川教会の熱心な信徒として市川教会を支えた渡辺沢次郎は、市川大門がキリスト教村になることが夢だったと言われています。やがて、1941年に日本キリスト教団が成立すると、市川教会も日本キリスト教団の教会となり、現在に至っています。

 市川教会が始まってから30年近くがたち、市川大門に幼児教育の必要を考えた市川教会の教会員たちは、カナダ・メソジスト教会の女性宣教師たちの協力を受け、1917年9月に市川幼稚園を創立しました。幼稚園の最初の場所は山梨中央銀行の向かい側の場所です(渡辺沢次郎の隠居所として所有していた土地が献げられ、園舎が建設されました)。その後、市川高校(近隣高校の合併により青洲高校の名称に変更になります)の近くの現在地に引っ越しました。また、今から40数年前に障がい児保育を教会の礼拝堂で始めるとともに市川幼稚園で統合教育を始め、それが元になって1973年11月に発達障がい児通園施設ひかりの家学園が設立され、幼稚園の隣に園舎が建設されました。市川教会と市川幼稚園、そしてひかりの家学園は140年前(明治10年)のカナダ・メソジスト教会の伝道の働きに拠っていると言うことが出来ます。